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特集

2026年10月01日 (木) 特集

日本音楽制作者連盟40周年記念 後藤豊初代理事長×野村達矢理事長対談

アーティストの権利を守るために「新たな道」を進んできた音制連が
「個の時代」にどんな選択をするべきなのか?

 一般社団法人 日本音楽制作者連盟(以下、音制連)が設立40周年を迎えたことを記念して、特別対談が行われました。野村達矢理事長が対談のお相手に選んだのは、後藤豊初代理事長です。

 1960年代後半から1970年代にかけて、日本にもフォークやロックなどの新しい音楽が定着し始め、若者達がアーティストのマネージメントを手がけ、コンサートの企画や音楽制作に携わるようになりました。プロダクションを立ち上げる者も多く、その流れの中心にいた後藤さんが、プロダクションの団体である音制連を設立するに至ります。

1986年に任意団体として誕生、1989年に文化庁の認可により社団法人化。当時のエピソードを振り返っていただこうと対談はスタートしましたが、「思い出話」だけに終わらないのが後藤さんらしさ。設立当時に「新しい音楽」の担い手として歩み始めた音制連が、さらに次世代のアーティスト達が時代を席巻するようになった現在、どんな団体であるべきか――にテーマは大きく広がっていきました。それに応えた野村理事長からは、後藤さんと歴代の理事長からのバトンを受け取り、未来に向けてアーティストの権利を守り続ける強い姿勢、そのために音楽業界全体の結束をより深める意志が感じられました。

取材・構成:君塚太/撮影:小山昭人(FACE)

「ステージに立つ側」ではなく「アーティストをサポートする側」

日本音楽制作者連盟理事長 野村達矢氏(MUSIC AWARDS JAPAN実行委員会委員長/ヒップランドミュージックコーポレーション代表取締役社長)

音制連の40周年ということで、初代理事長の後藤豊さんをお招きしましたが、現理事長の野村さんにとって後藤さんはどういう存在なのでしょうか。

野村今日、後藤さんとお会いできるということで、僕が後藤さんの存在を意識したのは、いつ頃だったのだろうかと考えていたんです。それで思い出したのが、明治大学時代に入っていたプロデュース研究会発行のキャンパスマガジンのことでした。その創刊号の表紙が、後藤さんだったんですよ。

後藤えっ? 記憶にはないですが……。

野村大学1年の時、1982〜83年頃に発行されたもので、僕はまだ編集に関われるような立場ではなかったのですが、先輩の荒木(伸泰)さん(現キャピタルヴィレッジ代表)が、後藤さんに憧れていてインタビューをお願いして、表紙にも掲載したんだと思います。

後藤インタビューも載っていたのですか。おそらくいい加減なことを話したんでしょうね(笑)。

野村そのキャンパスマガジンを読んで、後藤さんのお名前が僕の中に刷り込まれたんだと思います。プロデュース研究会のメンバーにとって、後藤さんは憧れの存在でした。当時は後藤さんもまだお若かったと思いますが、音楽業界に乗り込んでいって、新しいフィールドをつくり、パイオニアとして輝いていたというイメージが強かったですね。カウンターカルチャーといいますか、新しい文化の匂いを感じさせてくれましたし、新しいフィロソフィーが伝わってきたんです。

僕が大学生の時は、吉田拓郎さんや井上陽水さんの登場より少し後で、甲斐バンドやRCサクセションなど、ロックバンドも出てきた時代でしたが、明らかにそれまでの歌謡曲の在り方とは違って見えました。普通に考えれば、あの頃は「音楽に憧れる=アーティストに憧れる」だったわけですが、今でいうスタートアップ、学生から起業をして成功した方にも憧れがありましたし、より身近な存在に感じられました。だからプロデュース研究会も、軽音楽部みたいにステージに立つ側の発想ではなくて、アーティストの後押しをして、サポートをする発想で活動していたのだと思います。同じような活動をしている人達が、他の大学にもいましたしね。

後藤僕にとっては吉田拓郎と出会ったことがすべての始まりなんです。71年の新宿厚生年金会館だったと思いますが、「イメージの詩」という曲を初めて聴きました。歌い出しの歌詞から何から、驚いてね。こんな曲を書き、歌うシンガーがいるなんて信じられなかった。僕は早稲田大学で、それこそプロデュース研究会的なことをやっていたので、吉田拓郎のライブイベントをやろうと思い立ちました。それが結果的に会社の設立(1971年、ユイ音楽工房)につながったんです。

野村後藤さんが吉田拓郎さんと出会った時、まだ大学生だったんですか。

後藤そうです。ただし、僕は大学に7年間、籍がありましたから(笑)。僕らは東京で会社を設立しましたが、北海道ではウエスの小島(紳次郎)さん、四国ではデュークの宮垣(睦男)さん、他にも九州のBEAや名古屋のサンデーフォークなど全国で少しずつイベンター、今でいうコンサートプロモーターが立ち上がってきて、皆が拓郎を応援してくれたんですよね。各地からの後押しもあって、彼はスターダムにのし上がっていくわけです。

アーティストの権利を守るため必要だったマジョリティ

日本音楽制作者連盟初代理事長 後藤豊氏(フォーライフミュージックエンタテイメント代表取締役社長)

音制連の設立時を後藤さんに振り返っていただければと思います。

後藤音制連を設立する、直接的なきっかけは貸レコードでした。貸レコードといっても若い人達はピンとこないと思いますが、200円から300円でレコードやCDを貸すビジネスが80年代から流行ったことがあるんです。貸レコード店は普通のレコード店と同じように品を揃えていて、若いお客さんを中心に新譜が出る度にレコードを借りに行くわけです。旧譜を借りる場合ももちろんあります。そして、当時だったらカセットテープなどにコピーしてしまう。当然、こんな商売を認めたら、売れるはずのレコードも売れません。

ところが、僕らが貸レコード対策に頭を悩ませている段階で法律ができてしまい(1984年施行の貸レコード暫定措置法、翌年には改正著作権法)、貸与権使用料(商業用レコードの公衆への貸与に関する報酬)を受け取る団体として、文化庁から芸団協(日本芸能実演家団体協議会=伝統芸能から音楽、演劇、演芸、舞踏まで幅広いジャンルの実演家団体の集合体)が指定されてしまったんです。

野村貸与権という権利をつくり、使用料の徴収へ向けて動いていたわけではなく、貸レコード自体を認めていなかったわけですね。

後藤はっきりいえば「潰してほしい」と思っていました。当時の記憶は曖昧なのですが、確か芸団協に加盟している演奏家の団体、日本音楽家ユニオンの方が僕に会いに来て、話を聞いてみると団体を設立しないと使用料が受け取れないことが分かりました。使用料も何も、僕は貸レコード自体を認めたくない気持ちが強かったのですが、法律ができてしまった以上は仕方がないですし、現実的には貸レコード店で借りられているアルバムの多くは我々がマネージメントをしているアーティスト達の作品であり、アーティスト達が貸与権の権利者であるわけです。

 それで僕が声がけをして集まった「十日会」のメンバー(他に、アミューズの大里洋吉さん、ヤングジャパン・グループの細川健さん、ミュージカル・ステーションの金子洋明さん、ヤマハ音楽振興会の梅谷佳紀さん、りぼんの奥田義行さん、シンコー・ミュージックの青柳茂樹さん、六文銭ファクトリーの上田章二さん、音楽工房モス・ファミリィの寺本幸司さん/1980年の設立時、社名は当時のもの)に相談したんです。それで「マジョリティを持たなくてはいけないから、ちゃんとした団体をつくろう」と発展していき、音制連の設立につながったんです。つまり、蚊帳の外に置かれた状態だった僕達が、やむを得ず徒党を組み、既得権益の中に乗り込んでいったという図式です。

 野村さんにも感覚的に理解してもらえると思いますが、僕らはあまり徒党を組みたがらないじゃないですか(笑)。各社が独立独歩でやってきた意識が強くて、公益を優先する立場でどう行動するのかにも慣れていなかった。だから当初は驚くことが多くて、日本音楽家ユニオンの方が僕に投げてきた貸与権使用料の分配の比率は3対7でした。最初に聞いた時は「僕らのアーティスト分が7なんだな」と思ったら、逆だった(笑)。「録音に参加している歌手は1人の場合が多いが、バックを受け持つ楽団の演奏家は30人くらいいるから」「これだけの数のレコーディングに参加しているから」という理由で、彼らの提案は「歌手が30%、演奏家が70%」だったんです。これはあくまで当時の話ですが、絶対数を盾にした労働組合的な発想でしたね。

 アーティストがつくり、歌い、演奏し、名義も彼らのアーティスト名、バンド名になっているレコードである現実を見ようとせず、今でいうメインアーティストという認識が全くなかった。もちろん世の中で発売されているレコードには色々なものがありますし、立場上、日本音楽家ユニオンの方がそう交渉してくるのは理解できます。僕らにとってレコーディングに参加してくれるサポートミュージシャンも仲間だという気持ちもありましたが、ここはさすがに妥協はできないなと思いました。音制連の設立以降も、僕らの芸団協での闘いは、様々な局面で続いていくことになります。

野村音制連の歴史は、まさにそうですね。

その後、音制連が参加した芸団協内のCPRA(実演家著作隣接権センター)に実演家のための権利処理機能は集約されることになり、使用料の徴収・分配の在り方は年々改善されていくことになります。2026年3月分配分より商業用レコード二次使用料等(放送で楽曲が使用された場合に実演家が受け取れる報酬)の分配方法の見直しが行われ、新たな方式での分配が始まったことは近年の大きな成果だったと思います。

野村僕らは後藤さんが切り拓いてくださった道を、ずっと歩み続けているんです。新たな方式での分配の実施は、メインアーティストとサポートミュージシャンの料率の争いではなく、楽曲使用の実態に即して、より正確に権利者へ分配するためのものでした。時代が変わり、技術の進化によって精度の高い使用データが取れるようになりましたので、権利処理に関わる我々は、より正確かつ迅速な、そして手数料をできる限り抑えた分配を目指すべきだと考えていました。

後藤基本的に音制連は「権利者ありき」の姿勢を崩してはいけないんです。これは今の若い人達にも、しっかりと伝えていくべきだと思います。権利者のためには、徹底的にやらないといけない。権利を守るということが、安定したマネージメントやクリエイティブの循環につながるんだということを、今後も継承していってほしいですね。

テレビとラジオ 音事協と音制連

日本音楽制作者連盟40周年記念対談(左から)初代理事長 後藤豊氏、現理事長 野村達矢氏

草創期の音制連会員社が主にマネージメントしていたシンガー・ソングライターや自作自演のバンドは、学生だった野村さんが感じていたように、それまでの歌謡曲とは違う面があったと思います。関わっていた人達も「違い」を意識していたのでしょうか。

後藤アーティストの活動の中心は自分達で作品をつくることであり、ライブ、コンサートツアーでステージに立つことが一義です。それを前提にした上で、他に歌謡曲との違いが一番あるとすればテレビとの関係でしょう。僕達はプロモーションの中心をテレビに置かなかった。当時から若者向けのカルチャー番組的なものもありましたし、そういうテレビ番組とはコミュニケーションがあったんです。でも、メインストリームの歌番組は自分達とは別なものだと思っていましたね。

 歌番組でアーティストが届ける必要があるのは、鋭角的なところのてっぺんだけだと考えていましたので、常時出演すると鋭角的ではなくなるじゃないですか。それとこちらがどう考えているかというより、テレビ局側の敷居も高かったんです。今は違いますよ。でも当時は、あまり相手にされていない感じもありましたので(笑)、日常的なプロモーションとなると、どうしてもラジオ局に足が向きました。ラジオはシンプルなメディアで、僕達スタッフもアーティストも参加しやすいところがありましたし、深夜放送を中心にラジオ側も新しい音楽を積極的に応援しようという気運がありました。

野村後藤さんが音制連の設立に動いた当時、プロダクションの団体としてはテレビとの関係が深く、歴史のある音事協(日本音楽事業者協会)がすでにありました。その中で新しい団体を立ち上げたわけですが、既存の団体に合流するという考えはなかったのでしょうか。

後藤僕の中では全くなかった。音事協がいいとか悪いとか、そういう認識ではなくて、既存のシステムに合流する選択肢はありませんでしたね。

野村それは更地に新しい何かを立ち上げる気持ちのほうが強かったということでしょうか。

後藤はい。僕らが関わっていたのは、それまではあまりいなかったシンガー・ソングライター達が多かったわけですから、そんな彼らの著作権や著作隣接権は、自分達が守らなくてはいけないという意識が強かったと思います。もちろん広い意味での芸能、エンタテインメントととらえると、歌謡曲も僕らが関わっていたアーティストの音楽も根は同じだということは分かっているのですが、特に「権利を守る」という意味では今でもあの時に選んだ道は間違っていなかったと思います。

野村さんは1986年に渡辺プロダクションへ入社されていて、1989年にヒップランドミュージックコーポレーションに移るわけですが、音楽業界で仕事を始めた当初、団体の存在を意識することはありましたか。

野村あまり意識していなかったといいますか、団体とは何なのか分かっていなかったですね。渡辺プロダクションは音事協に加盟していましたが、新入社員として日々現場で仕事していると、自分の会社がどこの団体に入っているかなんて、考える時間はほとんどありませんでした。とはいえ、アーティストと最も近い距離にいる人間がどういうマインドを持つべきか、アーティストが保持している権利とはどんなものなのかは学んでいました。要はお金の流れも、文化の流れも、川上から川下に流れていくので、川上に立つ=アーティストに一番近い場所にいることがすごく大事になってくるわけです。そういった教えみたいなものは自然に身につけていったと思います。

 渡辺プロダクションに「ノンストップ」というロックセクションがあって、僕もそこにいたので、音事協にいながらも音制連的なフィロソフィーを学ぶことができたという面もありました。ノンストップを立ち上げた中井猛さんがヒップランドを設立して、僕も一緒に移ったわけですけれど、仕事を始めた当初から運のいいことに、僕は音事協的なマインドと音制連的なマインドの両方を持てたのがラッキーだったと思います。当時は考えもしませんでしたが、今振り返ると強くそう思いますね。

後藤渡辺プロダクションの渡邊晋さん、渡邊美佐さんがつくり上げた権利体系は、歴史的に考えてもプロダクションの基礎になったわけで、それを我々も無意識に学んだんですよね。

野村晋さん、美佐さんのお立場を考えると、音制連という新しい団体ができた時に、拒絶することもできたはずだと思います。田辺エージェンシーの田邊昭知さんをはじめ音事協の会長を務められた方々も、拒絶をせずに認めてくださった。これは後々、音制連が存続していく上において、とても重要だったと思います。

センスと勘が引き寄せる感動アーティストが歌い続ける魔力

アーティストをサポートする立場の方は、権利関連以外でも仕事の内容が変わりつつあると思います。例えばサブスクでアーティストの楽曲が聴かれることによって、世界中から多くのデータが集まることになり、それを分析してアーティストの今後の活動にどう活かすのか、考えなくてはいけない……その他にもSNS対応など様々な仕事が増えて、大変な時代になったなあ(笑)と単純に思います。

日本音楽制作者連盟理事長 野村達矢氏(MUSIC AWARDS JAPAN実行委員会委員長/ヒップランドミュージックコーポレーション代表取締役社長)

野村集まったデータをアナライズすること、それによってマーケティング的な戦略を立てることは必要だと思います。これからは日本国内だけではなくて、海外まで領域を広げていかなくてはいけないので、各国の市場の特徴をアナライズすることは有効でしょう。とはいえアナライズしたからといって、いい音楽を供給できるかといえば別問題なんです。やはりいい音楽を供給するためには、センスと勘が大事だと思うんですよね。そこが音楽ビジネスの難しいところであって、現時点では最高の音楽だと思えても、1年後、同じようにファンや新しいリスナーが素晴らしいと感じてくれるかは分からないじゃないですか。それに僕らが対応できるとしたら、武器はセンスと勘しかないと思います。

 センスと勘を鍛えるためには現場に足を運ぶしかないんですよ。ライブの現場でお客さんの様子を観察したり、会場の空気を感じる。そうすれば「この曲ではこんな反応するんだ。今はこういう曲が受けるんだ」と現実が見えてきます。フェスに足を運べば他のアーティストとの比較を含めて、自分がマネージメントしているアーティストが今、どんなポジションにいるのか目の当たりにできます。3つくらいステージがあると、お客さんは流動するわけじゃないですか。このタイミングはこのステージにいたけど、次の曲をやったらお客さんは離れてしまうこともある。そういったリアルに接していると勘が研ぎ澄まされていきます。

 もちろんマネージャーだけではなく、アーティスト自身がセンスと勘を兼ね備えることも大事でしょうね。例えばサカナクションの山口一郎とは、そういった話を今でもよくしていますし、現場を知り、臨場感を味わう大切さは共有していますので、そういう関係で一緒に仕事できていることは非常にありがたいですよね。

後藤今の野村さんの話を僕も肯定します。まあ、今はデータを分析して訳知り顔で発言するのが流行りみたいになっていますが(笑)、実際にそれがヒット曲につながるかといえば全く別の話ですから。我々の仕事は人を感動させる音楽をつくることであり、感動を得た時の喜びを味わうのが最上のやりがいなんです。マネージャーなりプロデューサーなりがアーティストにアイディアを出して、アーティストがまたアイディアをより広げて具体的な作品になる。気がついたら、その作品が世の中を席巻している……こんな素晴らしいことはないわけです。基本的にスタッフはクリエイターであるべきだし、楽曲やライブから生まれる感動をスタッフも味わうべきなんです。アナライズはSNSの普及が原点ですが、もう当たり前になっていますしね。それを前提としてマネージャーがやれることをやっていくという段階でしょう。

 もちろん今まで我々は海外のデータを手にすることはできなかったので、それが入ってきたのはとても大きいことだと思います。ただし、海外で日本のアーティストが注目されている事例を考えると、例えば身近にはフォーライフレコードから1978年にデビューした杏里の例がありますが、なぜ今、杏里が人気なのか、分析できたとしてもあくまで後付けですよね。それよりも現在に至るまで杏里が原曲のキーで過去の楽曲を歌えることが素晴らしいし、こちらも海外レコーディングでお金をかけて、丁寧にアルバムもつくっておいて本当によかったなと思います。

野村本当にそうですね。今年6月の「MUSIC AWARDS JAPAN WEEK SPECIAL LIVE」で杏里さんとコンサートをやっていただいた高中正義さんも世界中でヒットしています。当時のアルバムは、音質・演奏を含めて本当にクオリティが高いですし、それが海外で注目されることは今の時代ならではの出来事だと思います。何より日本の音楽が長い歴史とともに評価されることはうれしいですよね。

吉田拓郎さんもコンサートを再開しましたし、キャリアのあるアーティスト達の活躍は音制連が40年続いたことと無縁ではないと思います。

後藤皆がこの年齢まで、がんばっている。拓郎なんて80歳ですよ(笑)。なのにステージに立つと、キラキラ輝くんですよね。これが音楽の魔力といいますか、アートが持っているマジックなのだと思います。

個々のDIY的クリエイティブと力強い「大枠」が共存する未来

これからのプロダクションの役割、マネージメントの仕事はどのように変わってくるでしょうか。

日本音楽制作者連盟初代理事長 後藤豊氏(フォーライフミュージックエンタテイメント代表取締役社長)

後藤「権利を守ることも含めたアーティストが活動していくための環境づくり」というマネージメントの基本を維持していくのか、そこまで背負わずにエージェント的な役割でアーティストと関わりを持つのか。プロダクションの役割はいくつか分かれていくと思うのですが、どんな場合でもマネージャーがそのアーティストを愛し、つくり出す音楽を愛していることが最も大切なことだと思います。

 レベルの高い付き人にならず、行動力とアイディアと知見があって、フットワーク軽くアーティストの将来を導いていける優秀なマネージャーが育てば、AIが当たり前になろうがどんなメディアが登場しようが、マネージメントの仕事は成立するし、続いていく。でも、ひょっとしたら、それが音制連の会員社ではなく、他の場所から生まれてくるかもしれない。いずれにせよ、今のマネージメントを担っている人達が、枠組みや価値観にしばられることなく、自分で新しいスタイルをつくっていけば大丈夫だと思います。

 今年の「MUSIC AWARDS JAPAN」で、受賞したサカナクションの山口(一郎)さんが「北海道から出てきて、19年。この場所に立っていることが感慨深い」といった挨拶をしていて、聞いていた僕はホロッときたんです。それはおそらくマネージメントをしてきた野村さんが、色々なことがありながらも愛情を持って彼らに接してきて、ここまでともに歩んできた結果でしょうから、すごくうれしくなりました。山口さんは非常に頭のいい方であり、素晴らしい才能を持ったアーティストだと思いますので、時にマネージメントを超えた発想で動こうとするかもしれない。でも、そういったアーティストと一緒にちゃんとやっていけるマネージャーがいるということが、「MUSIC AWARDS JAPAN」のあのシーンに象徴されているようで、うれしくなったんです。

個々の会社だけではなく、音制連全体を見渡した上で、プロダクションの未来についてはいかがでしょうか。

野村やはり我々にとって重要なミッションは、マネージメントをするアーティストの権利をどう守るかであり、権利を守ることでアーティストが活動していく環境をサステナブルにすることだと思います。より良いクリエイティブをしてもらうための原資を維持することは、とても重要なことですし、これからも音制連が一番大事にしていかなきゃいけないのは、アーティストの権利だと考えています。技術の進化や変化の中で、今年認められたレコード演奏・伝達権のように新しい権利が立法化されることもありますし、時代や社会の状況に応じて音制連が何をしていくかを考えていく必要がありますよね。

 インターネットが進化して、今後はさらに個の時代になっていくわけじゃないですか。マスメディアからクラスメディアに、さらにはソーシャルメディアへと移り変わっていき、SNSで個人が様々なことを発信できるようになった。アーティストも同様です。レコード会社やプロダクションに所属するだけじゃなくて、インディペンデントな場所からDIYでつくった音源を発信することができる時代になりました。そういった中で僕達がアーティストの権利やクリエイティブな環境をどう守るかという発想が求められています。

 コロナ禍が明けて、音楽団体が団結したCEIPA(一般社団法人カルチャー アンド エンタテインメント産業振興会)が誕生しましたが、それは個の時代になった現在から未来を見据えると、逆に団体はより大きくなるほうがいいのかもしれないという考え方が根底に流れているような気がするんです。いわゆるオールジャパンというか、ワンジャパンというか、ひとつの大きなかたまりになったほうが、グローバルなフィールドで日本の音楽を守り、ビジネスの上で各国に対抗する強さを持てると思うんです。アーティスト達の個々の強さ、音楽業界全体の大枠の強さ、両極で考えていくべきじゃないかと。

 CEIPAが主催して「MUSIC AWARDS JAPAN」を始め、日本の音楽の国際競争力を具体的に進化させていく。一方でDIY的に個々のアーティストが配信すれば、世界中のリスナーに聴いてもらうことができる。この両面を日本の音楽が兼ね備えていけば、未来を切り開けるんじゃないか――そんな気がしています。現時点でもレコード会社、プロダクション、音楽出版社、コンサートプロモーターといった本来の業態の枠組はボーダーレスになってきていますし、ビジネススキーム自体が変わってきています。本当に今は時代の変わり目といいますか、場合によっては業界の再編も起こり得ると思います。

 我々はCEIPAの一員として、スケールメリットがなくてはできないことをやっていく。インディペンデントなアーティスト達は自分達のやり方でクリエイティブを発揮し、組織が必要な場合はエージェント的にうまく使ってもらう。そういう関係値で存在を棲み分け、共存していくことが、これからの時代のひとつの形じゃないでしょうか。

後藤DIY系で音楽を制作し、配信プラットフォームなどのネットワークを使って世界に音楽を届けようとしている人達は、音楽をどうデリバリーしていくかなどビジネスモデルに対しては積極的な面がありますが、著作権や著作隣接権に対しての意識は低い場合もある。彼らが成長していって、存在が大きくなっていくと、やはり権利を守るために連帯していく必要が出てくると思います。その人達が音制連に加わるのか、音事協に入るかは分かりませんし、ひょっとしたら新しく団体をつくるかもしれない。僕はそれでもいいと思う。ただし、おそらく誰の助けも借りないで活動していったら、フェードアウトしてしまう可能性も出てきてしまうと思うんです。

 僕がよく話すのは、メジャーとインディペンデントの両方があるからこそ、エンタテインメントの世界はうまくいくんだと。メジャー一色でもよくないし、インディペンデントだけしかなくなると、バランスが取れない。それを基本として、野村さんが考える「大枠」が生まれてくればといいと思います。皆が並列で色々なことをやってきて、ある一定の成果を得て、次の段階に進む時に、大きなかたまりが必要になる。今度はまたカウンターとして新たなインディペンデントが出てくる。その繰り返しは続くのだと思います。新たなものが生まれるためには、「大枠」が本当に力強く、大きなものとして存在していることが大事なんですよ。そういった意味ではCEIPAは心強く見えていると思います。その強さをぜひ継続してほしいですね。


PROFILE

後藤豊(ごとう・ゆたか )
フォーライフミュージックエンタテイメント代表取締役社長

大学在学中からコンサートやイベントの企画制作に携わり、1971年、ユイ音楽工房(現・ユイミュージック)を設立。1975年、フォーライフレコード(現・フォーライフミュージックエンタテイメント)の設立に参加、副社長に就任。1982年から代表取締役社長に。これまで手がけてきたアーティストは吉田拓郎、かぐや姫、長渕剛、BOØWY、杏里など数多い。1986年に音楽制作者連盟(現・日本音楽制作者連盟)を設立、理事長に就任。また、1993年にはアジアをはじめ世界の音楽産業の発展、音楽を通じた交流を目的とする音楽産業・文化振興財団の設立に参画し副理事長に就任。2011年より理事長に就任。そのほか日本レコード協会、日本音楽出版社協会などの役員を歴任。

野村達矢(のむら・たつや)
一般社団法人日本音楽制作者連盟理事長
一般社団法人カルチャー アンド エンタテインメント産業振興会理事
MUSIC AWARDS JAPAN実行委員会委員長
ヒップランドミュージックコーポレーション代表取締役社長

1986年、渡辺プロダクション入社。1989年、ヒップランドミュージックコーポレーションに移籍し、2019年に代表取締役社長執行役員に就任。ロングフェロー代表取締役社長、MASH A&R取締役なども歴任。2007年、日本音楽制作者連盟理事に就任。2017年に常務理事、2019年に理事長就任。

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