名物プロデューサー列伝

2016.09.13

INTERVIEW

名物プロデューサー列伝

株式会社ハンズオン・エンタテインメント 代表取締役社長 菊地哲榮さん

vol.68 株式会社ハンズオン・エンタテインメント 代表取締役社長 菊地哲榮さん

今回は音制連の理事でもある菊地社長をクローズアップ。現在はコンサート制作会社の社長だが、早稲田大学応援部時代にライブエンタメの原点を経験し、渡辺プロダクションでザ・タイガースや沢田研二、天地真理、木の実ナナらを成功に導いた、マネージメント業界の大先輩でもある。

interview:安藤広一 text:ふくりゅう(音楽コンシェルジュ) photo:内海裕之

感動が私の人生の転換のきっかけになっていた。
感動することが新しい行動を生むと思っています。

早稲田大学応援部時代

音楽業界に入られたきっかけは、大学時代の応援部だそうですね。

もともと、高校時代に器械体操をやっていました。高3のときにキャプテンだったのですが、夏の甲子園の千葉大会の応援をするために運動部のキャプテンが集まって応援団を結成することになったんです。指導をしていただいたのが早稲田大学応援部の先輩でした。応援以外にも「男とは! 人生とは!」など先生や親が教えてくれないことを教えてもらい、早稲田大学への憧れが生まれたんです。入学後、早稲田大学応援部でライブイベント企画にかかわることがありました。早稲田は全国各地にOB会があって、地方の先輩たちが現役の音楽団体を呼ぶんです。応援部吹奏楽団をはじめ、ジャズバンドやフルバンドなど数組で全国演奏旅行をするんです。それを応援部で仕切っていました。

それって完全にイベント制作として今のお仕事につながりますよね。

これが最初のライブエンタテインメントとの出会いでしたね。そして、応援部主催の学園祭“稲穂祭”を大隈講堂でやっていて、トップアーティストを呼ぶんです。「なぜトップスターを呼べるんだろう?」と不思議に思っていたら、応援部の先輩が渡辺プロにいたんですね。3年生のときに、“稲穂祭”の責任者になり、1万人収容の早稲田大学記念会堂(オリンピックでのフェンシング会場)で、大スター、ザ・ピーナッツに出演していただきました。このときに200万くらい利益が出たんです。今でいう2〜3千万ぐらいの価値。それを学ラン姿でアタッシュケースを持って銀行に預けにいくと、驚いてました(笑)。応援部では代表委員、いわゆるマネージメント担当でした。

逆境から感動へ

応援部の役割って多岐にわたっていたのですね。

そうです、体育会は、野球部はじめ全部で39部、そのまとめ役をしてました。東京オリンピックの3年後1967年に学生のオリンピック、“第5回ユニバーシアード”が開催される、そこで企画を考えたんです。全世界の学生アスリートを大学内の大隈庭園に招き、日本の文化に触れてもらうなど、歓迎会を開こうと。予算は200万。じゃあ、各部から集めた39万を元手にイベントをし、その利益で実現しようとなりました。

目的が明確ですが、いきなり大きな話になってきましたね。

1967年7月1日、ショーは3部構成で、3部が伊東ゆかりはじめプロ歌手のライブ。伊東ゆかりは渡辺プロ所属、トップスターでした。担当マネージャーと交渉して「いくら金あるんだ?」「ないですが。15万でどうですか?」「20万は出せ!」となり決定。バックバンドはチャーリー石黒と東京パンチョス、チャーリーさんも応援部の先輩でした。チケットは1万枚全部売り切れました。有頂天だったんですが、当日、伊東ゆかりの出番で会場が停電になってしまって…。20分経っても復旧しないのでさすがにあせりました。払い戻しすれば、「学生の分際で莫大な借金…地獄行き!」と頭をよぎったんですよ。

かなりのピンチですね。

苦肉の策で、伊東ゆかりのマネージャーに「これで歌ってください」と差し出したのが、単一電池を5個入れた場内整理用のメガホン。「何考えてんだ!」って張り倒されて(笑)。結局はチャーリーさんがマネージャーを説得してくれて薄暗いなかで歌ってくれました。生歌だったんですけど、演奏はミュート、舞台の一番遠くで聴いてもちゃんと歌声がはっきり聴こえたんですよ。これほど感動したことは今までの人生でありませんでした。涙が止まらなかった。しかも2曲目の途中で電気が復旧。照明が虹のように明るくきれい、音響がフルボリュームになり、歌も演奏もフルに。大盛り上がりですよ。こんな感動ってあります? ライブってこういうことなんですね。発信する側だけじゃないんですよ。お客さんと一緒に作る。ハプニングだって感動に変わる。「ライブは生もの」ですね…学びました。その資金で、8月20日、ユニバーシアード東京大会の選手団をバス数台で大隈庭園に招き、日本の祭り、盆踊りをはじめ、屋台のおでん、寿司など出店で歓迎した。全世界のアスリートたちは日本の情緒や食べ物を大いに喜んでいた。終わってみると、吊っていた提灯がひとつ残らずなくなっていた。私にとって、忘れられない感動の出来事でしたね。こんな感動に出会ってしまって、「エンタテインメントは素晴らしいな」と思い、もともと理工系の勉強をしていたのですが、渡辺プロの試験を受けて就職することになりました。

株式会社ハンズオン・エンタテインメント 代表取締役社長 菊地哲榮さん

うちは何も持っていない会社だけど、誇れるとしたら、信頼の絆、そして自己ベストを尽くす社員の人間力です。

渡辺プロダクション時代

そうだったんですね。

1968年、新卒で渡辺プロに入ったんですが、すぐにザ・タイガースを担当。感慨深いのは、1968年8月12日、“ザ・タイガース・ショー〜真夏の夜の祭典”。後楽園球場で日本初のスタジアムライブをやったことです。

天地真理を発掘したのも菊地さんなんですよね?

1971年10月デビューかな。渡辺プロ経営の新人養成所、東京音楽学院で出会いました。まず、売り出し方法を考えました。麻雀仲間で演出家の久世光彦さんが当時視聴率30%超えの番組『時間ですよ』のプロデューサーだったので「出してよ!」ってお願いしたんです。当時、ほとんど人脈は飲んだり食ったり麻雀でした(笑)。『時間ですよ』のお手伝いさん役のオーディションに落選、しかし、久世さんが特別に役を作ってくれたんですよ。1971年7月21日の初出演時には、セリフなしで風呂屋「松の湯」隣家2階の窓辺でギターを抱えながら「恋は水色」を歌うだけの登場。下から堺正章が見上げるわずか20秒のシーン。雀荘に行って「久世さんひどいじゃないか! あれだけ?」って怒ったんだよね。

でも、印象的なシーンでしたよね。

そうなんです。それまで私はプロモーションは量だと思ってたんです。でも、あのわずか20秒のシーンで「あの子は誰?」って投書がたくさんきたんです。どんどん人気出ちゃって。勉強になりましたね。量でなく、印象的、個性的、感動的であること。

渡辺プロには何年間いたんですか?

ちょうど10年でした。特に1974年、現場マネージャーとして沢田研二全国縦断コンサート“ジュリー・ロックンツアー’74”を仕切りました。これは今で言う全国ツアーの走りであり、スタートでした。最初の原型は早稲田大学の演奏旅行、次は沢田研二全国縦断コンサート。そして、のちにハンズで多くのアーティストの全国ツアーを徹底的にやったわけ。地方のプロモーター、イベンターさんと連携しながら、スケジュールを中央でコントロールする仕組みで、今は定番になりました。しかし、それまでは各地の興行師の地区も時期もバラバラのオーダーにその都度対応して、非効率なツアーでした。アーティスト側から、この時期、地域を順序よく計画して逆にオーダーする形になった。そうこうしているうちに渡辺プロを昭和53年に退社しました。

コンサート制作会社を設立

その後、有限会社ポケットパーク(松原みきが所属)を作り、今に通じるハンズオン・エンタテインメントの社長に就任されましたね。

ハンズは、当初ヤングジャパンとキョードー東京グループが出資して設立、アリス、海援隊、ユーミンでスタート、その後佐野元春、大澤誉志幸、渡辺美里など、エピック系のアーティストで業績が急伸していきました。うちの会社は照明、音響、映像等機材を持っているわけではないし、アーティストも所属していない。そういう意味では、ものも権利も何も持っていない会社なんだけど、誇れるとしたら、多くの取引先との強い信頼の絆、そして自己ベストを尽くす社員の人間力なんですね。社員がイベントやライブをトータルプロデュースする。アーティストとスタッフが安心して全力を発揮できる環境を作る仕事なんです。もちろん、お客様に思う存分感動してもらえる環境作りも。

菊地さんが仕事を続けるうえでのモチベーションとは何でしょう?

振り返ってみれば、私の人生は、感動が転換のきっかけになっていた。感動できるか、感動をいかに与えられるかですね。感動すること自体が新しい行動を生むと思っています。失敗しても、もう一回やってみようという気持ちを与えるのも感動の力なんですよ。感動を生み出すビジネスというのは、これからの中心軸になると信じています。

PROFILE

株式会社ハンズオン・エンタテインメント 代表取締役社長 菊地哲榮さん

菊地哲榮

1946年、北海道生まれ。早稲田大学卒業後、渡辺プロダクション入社。1978年に独立後、コンサート企画制作会社ハンズ(現ハンズオン・エンタテインメント)の代表取締役に就任。現在、松任谷由実、ケツメイシ、森山直太朗など約200組のアーティストを手掛ける。日本音楽制作者連盟の2020年委員会担当理事も務める。早稲田大学応援部稲門会会長、千葉市美浜文化ホール芸術監督でもある。

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